タルド『社会法則』新訳&「モナド論と社会学」初訳

すでに伺ってはいたのですが、村澤さんのブログで紹介されていたので、こちらでも。
村澤さんの翻訳で、タルド『社会法則』が、河出書房新社より新訳で刊行予定だそうです(http://www.kawade.co.jp/np/isbn/9784309244594)。
『社会法則』では、タルドの考え方の基本的な骨組みとなっている、反復、対立、適合という三つの様相から現象を分析すべしという議論が簡潔に論じられています(ただし、タルドはその序文で体系化して喜ぶよりも、断片として利用してもらったほうがいいといった旨のことを述べています。この言葉に、最近重みを与えたほうがよいと思うようになりました)。
日本でもすでに三つの翻訳があり、タルドの全体像がわかる小著として親しまれてきましたが、これらの翻訳はすべて戦前のものであり、古本でたまに入手できるのみでした。
今回の新訳には大いに意味あるものだと思います。

たださらに意義深いのは、ついに「モナド論と社会学 Monadologie et sociologie」が初めて訳されるという点にあります。この「モナド論と社会学」は、もともとウォルムスらとともにタルドも刊行を手伝った、1893年の『国際社会学評論』第1巻に掲載された論文「モナド論と社会科学」が元になっていて、1895年にEssais et mélanges sociologiquesに再掲されたものです。このなかで、タルドは自らの哲学的立場である「ネオ・モナドジー」や「所有の哲学」を展開しています。

モナド論と社会学」がなぜ重要なのか。それは、この「モナド論と社会学」こそが、『経済心理学』とならんで、現在の「タルドルネッサンス」(cf.『模倣の法則』邦訳オビ。もりあげようと使ってみる)の少なくとも二つの流れを準備した著作だからです。

第一に、ドゥルーズは『襞』のなかで高く評価しています。例えば以下のように。

この所属あるいは所有をめぐる変化は、哲学的にみて実に重要である。あたかも、哲学が新しい構成要素の中に入り、存在の要素を、所有の要素でおきかえたかのようだ。たしかに「身体をもつこと」という定式は新しいものではないが、新しいのは、所有の種、度合い、関係、可変要素に分析をむけ、そこから<存在>の観念の内容と展開を引出したということである。フッサールよりはるかにガブリエル・タルドは、この変化の重要性を十分に把握し、存在という動詞の不当な優位性を糾弾した。「自己の真の反対物は、非自己ではなく、自己に属するものである。」(注19)

(Deleuze 1988=1998 : 188-90)

上の引用の注19では以下のように言われます。

ガブリエル・タルドは、重要な文章「モナドジー社会学」で、<もつこと>が<あること>にとってかわることを、モナドから直接に由来する形而上学の重要な転換として提示している。(Gabriel Tarde, « Monadologie et sociologie», in Essais et mélanges sociologiques, éd. Maloine.)ジャン・ミレはこの主題について注釈し、<存在論>にかわるこの学をEchologie と名づけることを提案している。(Jean Milet, Gabriel Tarde et la philosophie de l’histoire, Ed. Vrin, pp. 167-170.)

(Deleuze 1988=1998 : 189)

このような引用からして、ドゥルーズモナドジーに関する議論におけるタルドの位置の重要性は容易に見て取ることができるように思われます。
おそらくはこのような評価(他でもドゥルーズタルドをかなり持ち上げてますが)を受けて、ドゥルーズ派のエリック・アリエズを監修者として、タルド著作集が編まれたのでしょう。
というのも、「モナド論と社会学」は、もともと論文であったにもかかわらず、単行本化され、タルド著作集の第一巻を飾ることになるからです。

そして「タルドルネッサンス」(しつこいかも)の第二の流れとして、この著作としての『モナド論と社会学』を読んだブルーノ・ラトゥールが、タルドを自分のアクター・ネットワーク理論の先駆者だと感動し、いい意味での「タルドマニア」(あるいは今年のタルド/デュルケムカンファレンス以降、「タルドのシャーマン」ラトゥール)となり、さまざまな著作でタルドを用いるようになっていき、使える著作として、現在徐々にタルド関連の論文が増えている状況にある、というわけです。
(詳しくは、例えばラトゥールの論文「ガブリエル・タルドと社会的なものの終わり」を参照のこと。
Latour, Bruno 2001 "Gabriel Tarde and the End of Social," in Patrick Joice ed., The Social in Question: New Bearing in History and the Social Sciences, London: Routledge: 117-132.
(http://www.bruno-latour.fr/articles/article/082.html)

ラトゥールは、この論文の中でタルドの議論を、socialをassociationとして理解するものとして再評価しています。確かにほかの著作をみても、ラトゥールの「関心の共同体」や「他者を整列させること」といった考え方は、タルドの議論にとても親近性があるように思われます。

このようなわけで、「モナド論と社会学」が日本語環境で読めるようになったということはタルド研究にとって非常に意義深いことであり、タルド研究者としては非常にありがたいことであるわけです。ようやくクールノー研究論文も出され(cf.『エピステモロジーの現在』。面白いす)、タルド研究のための環境がすこしずつ整ってきているように思えます。『経済心理学』研究も気張らねば。

*11月28日に修正しました。
また翻訳は、信友建志さんとの共訳ということになるようです。