『模倣の法則』

『模倣の法則』のページ作成。それにともない、池田祥英、村澤真保呂の項も更新しました。
『模倣の法則』
http://www.ritsumei.ac.jp/~so029997/db/1890gtj.html

「社会問題という百頭のヒドラは永久に再生する。それは現代にかぎらず、あらゆる時代をつうじて存在してきた。というのも、社会問題は消沈状態【懐疑、無気力、絶望など】をどのように終息させるかについては問わない。そうではなく、社会問題は衝突状態【宗教的戦争、政治的戦争、革命など】をどのように終息させるかを問うのである。いいかえれば、次のことは社会問題ではない――たとえば科学と宗教のどちらが大多数の人々において優位を占めるか? 最終的に心の中で優位に立つのは、社会的な規律への欲求なのか、それとも羨望や自尊心、反抗的憎悪なのか? これまでの支配階級が現在の無気力状態から抜け出すことになるのは、大胆で積極的な譲渡と過去の野心の放棄によるのか、それとも反対に成功への希望と信頼のさらなる噴出によるのか? 新しい社会がそれじたいをモデルにして道徳や名誉にかかわる事柄を正しく再構築するのか、それとも古い道徳のほうが社会を再構築するだけの力と権利をもつことになるのか? こうしたことは社会問題ではない。これらの問題はいずれ解決されるに決まっている。そして将来これらの問題が解決されるのは容易に予測することができる。
しかしそれとはまったく別に、根絶することが困難であるのは次のような問題であり、それこそは真の社会問題を構成しているのだ――少数の分離派を多少なりとも強制的に排除したり改宗させることによって、いつか人間精神の完全な一致が成し遂げられることは悪いことなのだろうか? だいたい、そのような日は到来するだろうか? また諸個人の商業的・職業的・野心的な競争、そして諸国民の政治的・軍事的競争が、これまでは夢物語であった労働組織あるいは国家的社会主義によって抑圧されてしまい、そこから世界的な巨大連邦や新たなヨーロッパの均衡が生まれ、ヨーロッパ連合に向けて第一歩が踏み出されるとしたら、それは悪いことなのだろうか? それは未来に実現されるのだろうか? あらゆる支配と抵抗から解放された、絶対的な主権をそなえた強力で自由な社会的権力が生まれ、想像できるかぎりもっとも博愛的で知性的な一党派や一国民によって、その権力が独裁的あるいは因習的な至上権になるのは、はたしてよいことなのか? そして、われわれはこのような見通しに期待してもよいのだろうか?
これらのことこそ問題である。社会問題が恐るべきものであるのは、以上のようなかたちで提示されるからである。すなわち人類全体も個人と同様に、もっとも大きな真理や勢力、もっとも大きな確信と信用の量、ようするにもっとも大きな信頼度を得る方向へとつねに動く。その最大量に到達するとしたら、それは議論や競争、批判の発展によるのだろうか、あるいは反対に、それらが抑制されることである独自の思想や意志が強化されて広がっていき、模倣の花がいたるところで咲き乱れることによるのだろうか? ――そのようなことに思いを巡らすこともできるだろう。」(Tarde 1890=2007 66-68)