モスコビッシの『群衆の時代』をちらと読み。
それまで語られていた群衆は、社会から国家から出てくるものであった。
それが、タルドによって反転させられた。
タルドによってはじめて、原初に群集あり。群集から家族などといった社会や国家が生まれたのだと主張されたのだ。
、、、というような話しを読み、それは歴史的にあった、というよりは、
何か、理論的に組織化されていない集団を最初に基礎においた、という話なのではと思うというか仮定してみる。
そこで『自由論』での「統治される者」の蜂起の話しと、それ以前の「統治性?」
についてのフーコーの議論を思い出す。
確かに「統治される者」は蜂起の可能性はある。でも、まだ蜂起していない。
なので、潜在的に蜂起しうる集団。潜在する「共通性なき共同体」。潜在する「マルチチュード」。これならもうすでに常にある。取り立てて驚くことはない。それは事実だ。
問題は蜂起したとき。
純粋に「反対」、それだけならばいい。どこでも蜂起、いつでも蜂起、誰でも蜂起、の状態が常態化。いつでもどこでも誰でもこんな統治のされ方俺は嫌だ、と言えばいい。
蜂起の潜在性を担保しているのは、このことだけだと思う。
でも、それだけでないなら、希望があるならどうだろう。
たとえば「うまく反対したい」ということだけでも、量の問題が滑り込んでくる。そうなると、どれだけ力を持っているやつがいるかとかいう人間の値踏み、どれだけそこに人の数がいるかという集団規模の値踏みが起こる。そこで、もし、より強さが欲しい、と欲するなら、何がしか主体化、もしくは組織化がなされてくることになる。そこでは主体化=奴隷化となることもある。
ここで、群集から社会が生まれる。そういうのは、けっこう大きな変化だということになる。ただの「統治される者」であったのが、組織された立ち向かう者になる。ここで何か閉じる。可能性が閉じる、ではなく、集団ができ、信念と欲望をなにがしか共有するものとして閉じる。「統治される者」=立ち向かう者、ということになれば、まさに革命だ。全員が同じものを信じ、同じ社会になろうと欲する。うん、気持悪い。
でも、ありえるとする。でも、ずっとそうありつづけることは難しい。要は、食べなきゃいかんのに、そのためにやることはいっぱいあって、蜂起どころではなくなる(としとこう)。しかも立ち向かう者が何かできるようになったら、「このままでは嫌だ」と「こうありたい」とでは全然違う、そして「こうありたい」は種類が多いので、たぶん、分裂する。そこでそれなら私たちどこかに行くわと別れてしまうなら、まあ対立はなし。でもそうならないなら、対立する。そこでも量の問題。こうなると簡単。「こうありたい」を実現する立ち向かう(った)者と、実現できない者がでる。となれば、おそかれはやかれ、
全体たる「統治される者」を代表する少数の立ち向かう(った)者、ということになる。もしかしたらそういうのがいくつもできる、ということになる。ここではもはや、立ち向かう(った)者は新たな統治する者だ、ということになってしまう。
そうなると、これまでの話を、別の人が別の仕方で再(=差異、というのはさぶいね)現実化する。
なぜなら、「こんな統治のされ方嫌だ」と思ってるやつが潜在的にいるから。
そうして、でも、それでも、また、「統治される者」は立ち上がる。
こんな形で、フーコーの「人民は蜂起する、それは事実だ」という言葉は意味が通る、と
思ったりした。
そうなると、永劫回帰とかなんとかと関係ありそうな。ないな。


まあ要は、蜂起だけではなくて、人が沢山いて何かが起こってる、ということは気になるので、タルドはそういうことにも言及しているので、ぼちぼちと考えて行けたら、ということなんですが。まっとうなタルドへの関心。なにか半周した感じで。