『情況』11月号
ナショナルジオグラフィック』10月号
S・ピンカー『人間の本性を考える:心は「空白の石版」か』3巻セット
ピンカーの本は3章まで読んでがっかり。これ以降に期待、、、しないともう読めない。
ところで、ちらりとでも読んだ人ならお分かりのように、
この本の副題は疑問ではなく反語。「心は「空白の石版」か」(いや違う)です。
原著のタイトルはTHE BLANK SLATEで、「タブラ・ラサ」の英訳でつまり「空白の石版」。
まあ本書の言いたいことを要約している、といえるでしょう。
実際、3章終わったところですでに「心は何も書かれていないわけではない」というような箇所を何度も読んだ。


かなりどうでもいいけど気になったこと。
でも、実はこの本は「心は「空白の石版」か(いや違う)」とは言えてないんじゃないか。というのもピンカーは、通俗的心身二元論を否定し、通俗的な機械論をとったり、通俗的社会生物学(人間が進化したのは狩猟時代だ!だからそのときに合わせたつくりに人間はできている)も採用したりとありきたりな方法を遣いながら(コネクショニズムはこれから)論をすすめていく。それでピンカーの言いたいことを、ざっくりと根元だけまず言えば、人の心や文化はものすごく多様に見えるけれど、実は、普遍的に共通するものがあるということ、つまり人間には本性があるということなんだろう。
で、「空白の石版」という言い方には、実は、人間の本性があることを認める余地がある。というのも、人間の心が少なくとも同じ「石版」であることは認めているのだから。
でもピンカーと「空白の石版」にはまだ大きな違いがある。
わかりやすいように「石版」にも本性という言い方をさせるとしたら、石版の本性は「人間は誰でも、白紙の心の上に経験によって何でも描くことができる」ということになる。
ピンカー版の本性は、これも乱暴にまとめるが、「人間には共通の本性があるが、その本性には人によって先天的な適正や欠損があるので、人によってできることとできないことに違いがでる」ということになる。
こう言うことは、石版が「空白ではない」ということを示していることにはならないのではないか。むしろ、石版にはいろいろな色があり穴が空いている、としか言えてないんじゃ無いか。
「空白」で穴だらけのピンクの石版、なんてのがあったりして。俺はおそらく、石灰でできたもろくて触るとただれる石版だ、、、っていう下らないことを言おうとしたのにまわりくどくなってしまった。
先を読むことにしよう。