村上春樹アフターダーク』読了。違和感がある。
読みながら、小泉義之先生の西尾維新への評論「あたかも壊れた世界」のなかの以下の
一節を思い出した。

市民たちの「調和の取れた世界」は、何ごとも起こらなかったかのように「完結」している。…世界に小波
が発生して、然るべき行動を経て、均衡が回復されるというそのことが、何かが起こったことを告げている。何かが起こったからこそ「調和の取れた世界」が続いているのだ。「そうでなければ、ここはあたかも壊れた世界だ」。…とはいえ、この世界のネジレ
を言い当てるのは困難極まりない。ネジレはどこかにあるはずなのに、ネジレ
をどこにも見つけられない。ネジレは蒸発したように見える。市民たちは問題すら感じない。「分からないことがある」のに、世界は「何の問題もなく進行していく」。<<(『ユリイカ』2004年9月臨時増刊p72)

『ねじまきどりクロニクル』や『海辺のカフカ』では、「ネジレ」の起こった世界に対し、修復しようとする儀式が行なわれようとしていたけど、それは『アフターダーク』ではなかった。それなのに希望の「予兆」が感じられる結末だということに、納得がいかないというか、まさに「市民」たちの「調和の取れた世界」じゃないか、と思ったりした。
たぶん大雑把に読んでいるから、こういう読みになるんだろう。
もっと「予兆」と「記憶」はたくさんあったはずなのに。