マルチチュード雑感

あけまして、高校サッカー見る日々。
マルチチュード』読了して、批判しようと思えばいろいろあるんやろう(たとえば、今考えてたことに引き付けると、大きな主張のひとつ「全員による全員の民主主義」を徹底させるというの、あれは実際には実現不可能やろうと思う。単純に、生まれてきてすぐの奴がどうして民主主義に加わることができるのか?屁理屈みたいだけど、彼らが肯定し、<帝国/マルチチュード>仕様に変奏させようてしてる近代の思想家たちが、どうして教育論も書いてるのかと思えば、あんまり無視ししていい論点じゃないような。たぶん生まれてきて育つことは民主主義的ではない仕方で行われざるを得ないんじゃないか?となると、民主主義には確実になにがしかの限定が必要だ(絶対的民主主義は、接続された脳でも持たない限り現在の人間には実現不可能)、ということになるし、それなら彼らが問題としたかったものは、どのように捉えなおされないといけないのか?あるいは、まあそういうのわかってるけれども概ねその通りだからよしとしよう、といっていいの?駄目だろう。とか、ネットワーク社会とかもっと分析しておかんとあれじゃ駄目っぽいとか。詳しい人ならもっとあるはず)。けれども、現状認識を転換せないかんということは分かりやすいしよくわかったし、可能性がゼロだとはちっとも思わないし、それだけでもじゅうぶん『哲学書』としてはオッケーなのでは、とえらそうに言いつつもっと勉強します。


言い放ってみるテスト。
僕が思いつくマルチチュードの使い方は、署名やら活動やらするときに、とりあえず「マルチチュード」って恥ずかしがらずに誰もが書くこと、主張することだと思うな。当然、ネグリ=ハート自身が、署名をマルチチュードって書いてこの本を売るべきやった。そしてマルチチュードって署名した奴は誰でも儲けた金をマルチチュード基金作ってそこに資金を集めること、WTOやらなんやらに対抗する、ありうべき金融を作り出すことに使う。集まった金はマルチチュードなら誰でも使える。金が世界を動かす?それなら俺もここから引き出して世界の運動に加わってやろう、そう思わせるような基金を作る。貧乏人・知識人・病人・山師・健常者・労働者・ニート・金持ち、賛同するなら誰でもいい!金ならここにある!マルチチュードは集まらなくても連帯する、ネットワークとして助け合うのだ!ってね。企業もマルチチュードなのっちゃったりしてね。OKOK。でも儲けた金は基金にいくらか寄付。マルチチュード企業の誕生、あるいは<帝国>メタファに乗っかるなら、平民から貴族の誕生だ!
なんなら通貨マルチチュードを作って、地域通貨なんていわないで、世界共通通貨として流通させるのもいいかもね。マルチチュードを名乗る奴なら利用できる。認めないなら、使えない。今の通貨も、マルチチュード店では使えない。通貨マルチチュードの価値を担保するのは、国家ではなくマルチチュードへの信頼だ。現在の通貨ももともとは紙と金属だって、思い出させてやろう。構成的権力というのは、たぶんそういう風に捉えてもOKなはずだ。
D=GとかH=Nとかでとどめないで、D=G=H=N=俺=君…って繋いでいって、われわれではなく単にマルチチュードとして、ネットワークの怖さと凄さを<帝国>に見せつけてやればいい。あるいは、大木の下にうごめくリゾームの力を見せつけてやればいい。

と、もし「マルチチュード」を意味あるものにしたいと願うなら、せめてこれくらいは言ってほしいなと思う。これもえらそうだ。