改 ビールを飲んで走る

一日、ちゃんと過ごしたかどうかを、ビール一缶やましさなく飲めるかどうかで判断することに昨日から決めた。
ビール分働いたと実感するのは難しいことだ。
実は、働いたことと対価をもらいすぎている人も多いのではないかと、ビール一缶分の実感は教えてくれる。でも逆に、十分に対価を貰っていないという感じもある。
仕事をしたということと、その仕事に対する対価は、どのようにしたら釣り合っているといえるのか、なんて問いは複雑で難しくて、なんとなくすでに成立しているものに乗っかっている、というか、まあなんとなくで過ごして生きている。その事態をどうとらえるか。


このあいだ斉 藤貴 男の授業を聞いていて、事例も挙げつついまの就職状況について暗部を言っていると思いながらも不満だったのは、わかりやすくしようとして、人生を競走にたとえたりすることだったのかもしれない。
確かに人生にスタートとゴールはあるといってもよいかもしれないけれど、
そのときよくいわれるように、誰かが、スタートラインの100m後ろからスタートしているから不平等で、誰かがゴールの1m前からスタートしているから不公正だ、というわけではないはずだ。もっと違う話にしなければ、単に、妬みを言い換えただけになってしまう。
御曹司の後ろに位置して生まれたわけではないし、貧しい人の前に位置しているわけでもない。ましてや死ぬこと以外に共通のゴールはないし、死だって同一のものではない。
競走という以上は、走るための地面やコースが必要だ(アキレウスと亀の競走のパラドクスで、地面なしバージョンを想定している人がいたが、それはともかく)。つまり何がしかの基準が、そこにはあると想定されている。でも、それが何かわからない。金なら借金というマイナススタートはあれど、ゴールはない(それが怖い)。身分なら、上限、ゴールもありうる。でも、それなら、ゴールできない人が大半だ。自己実現ならスタートもゴールもあるが共通の地面がない。時間はどう想定されているのかもわからない。もし人生=競走だとしたら、先に生まれた人が、ゴール=死、あるいはそうでない何ものかに「近い」のは、おおむねそのとおりで、競走がそうなっているからといって非難すべきことでもない。
なんにせよ、そんなものを競走と呼んでいいとは思えない。
スタート位置の違う競走は、機会平等についての話としては不適当なのだ。
もっと別の話、わかりやすいしけれども、違う帰結をもたらす作り話を聞きたい。自分で作れよ?そのとおり。