論文コピー。とくに面白かったのは、
山家歩 2004「病でもなく、正常でもなく−人格障害概念の発明」『現代社会理論研究』14 :278-90


人格障害」という概念が、現在、マスコミをにぎわせるような事件を引き起こした「怪物達」に適用される。しかしこの概念は実は理論に裏付けられたものではなく、むしろ「社会統制」のための機能を「精神医療の専門家」が担うための権力獲得の戦いの戦果として位置付けられる。
フーコー、ナイやパスキーノの論をふまえたうえで、それらは語られる。
ロンブローゾによる「生来性犯罪者」概念の発明を、「変質」概念を通じて可能にされた危険性の評価の企てを犯罪学の実証科学の確立という形で継承する試みであり、今も科学的知識を利用して犯罪者にたいして予防的介入や治療を行なうというプロジェクトは、この「ロンブローゾ的な問題設定の圏内にある」とされる。
そのプロジェクトの中でも画期的だったのは、クレペリンによる「精神病質性人格」概念の発明であるとされる。この概念によって「精神病ではないがさりとて正常でもない中間領域であるという精神病質の位置付け」はより明確となった。しかしこの概念で指し示されているのは、結局「社会の屑」の列挙、「道徳的なレッテル」に過ぎない。現在のDSM (Diagnostic and Statistical Manual of Mental Disorders) においても、実際にはクレペリンの試みを引き継いでおり、まったく網羅的な列挙ともなっていないし、理論的に裏付けられてもいないとされる。
山家は、このような「科学的に価値中立的な」人格障害の完全な網羅と区別とは、「人格障害研究を駆動し続ける「見果てぬ夢」」だと断じる。そして、このDSMこそが、精神医療の「社会統制的な側面を問題化した批判や政治的闘争に関わる記憶の「忘却」の組織的な生産」であると暴かれるのである。


もちろん、例えば芹沢一也のように、明治・大正期からあるいはそれ以前から日本の精神医療の導入を歴史的に語ろうとする業績を振り返る時、山家には、日本の問題としてそのままフーコーを適用してよいのかという問題、言い換えれば、これはどこで起こっているのか、と問題にすることはできる。まあ、具体的にどうやってDSMが効いてるのかとかいった説明も、あるとより説得力ありそうだし。
だけど、「人格障害」概念を問題にすることで、論の現在化に成功しているし、この人はリスク論批判、現在の社会の「心理学化」批判といったこともやっていて、視野も広いし勉強になるなあと。文章かっこいいし。しかもまだ法政の院生だと言う話だし。すごいなあと、感心しているだけじゃなくて勉強しろ、という声が聞こえそうです。


と、上にちょっと書いた批判めいたことは、
山家歩 2004「リスク・予防・国家」『社会研究』法政大学大学院社会学専攻委員会 34 :23-48で検討されてました。しかも日本における癩病の管理と精神医療の管理とを比較しながら。すごいなあ。