Over the beach boys

空からもお前は駄目だといわれましたよ

ここ一週間であったこと。


「サイボーグ宣言」を授業で読んだ。
まずは、団結するためのアイデンティティとして、「女性」ではなく(「労働者」でもなく?)「サイボーグ」と言ってみるテスト(政治的)、なんだろうなあ。
そこから、違う読みを、、、って、まだ最初の二章しかちゃんと読めていないだけですが。


国際関係学部の人たちメインの研究会に参加。
今回はフーコーについての参考書を読む、といったもの。
僕とはぜんぜん見方が違うので、話してて楽しかった。


蹴りたい背中綿矢りさ 読了。
孤独感を醒めた目でみてる私を「主人公」にしてもう一度客観視するくらい遊離しちゃっててそれは俺にもあるさ、と言いたくなる感覚。
でも、このとき問題は孤独感ではないのかも。
「蹴る」ことはほんの少しのコミュニケーション可能性を思わせる、けれどコミュニケーションではない。
「蹴ったこと」は、にな川には最後まで気づかれない。
明らかに主人公は、にな川に対してサディスティックな欲望(XJAPANはそれなりに好きだったよ)を抱いているけれど、それも問題ではないような。
けっきょく、主人公のそれが恋などではないというのは、「蹴ること」があくまでもコミュニケ−ションの先触れであり、そうあり続けることによってのみ求められるものだからだ。
にな川にとっての「オリちゃん」がその情報の断片を集めていたときのほうが、その存在を近くに感じていられたように。
気付かれずに蹴る主人公、実物のオリちゃんよりもその断片に近さを感じるにな川。
コミュニケーションそのものではなく、その実現しない先触れだけを求める二人に、逆説的な繋がりができる。
そこが、面白いのでしょうか?謎。
ただ、妙に引っかかる感じがあるのは間違いない。




CD
the shins の 「chutes too narrow」
一曲目は試聴しながら泣きそうになりますた。
そろそろビーチボーイズを超えていかないとね。


はじめにきよし「楽」
やはりいいす。いつもよいす。
三条の十字屋でインストア・ライブを見た。
なんでピアニカやのこぎりで、あんなに胸が詰まらせられるのだろう?