自由研究読書会、『リベラリズムの存在証明』の7章へ。いよいよ佳境。
前回僕は5章を発表。
いちおう、meme mimeme mimesisというふざけた名前のHPを開設している以上
ミーム論は気になってるわけで、『リベラリズムの存在証明』でミームが語られている(!)5章はすごく気になってました。
で、読んでみて少し疑問がのこりました。
というわけで、素人的に批判してみる(無知さらけ出してるだけならどなたか突っ込んでもらえると勉強になります)。

まず、ミームという概念が科学的に厳密になるのか疑問なのは同感で、ミーム
主体化/実体化されやすいというのも同感です。

で、突っ込みいれてみます。
「この進化の過程」とリベラルな正義が両立しない場合として、労働市場の需給
調整が、死んでしまう人がでるかもしれないメカニズムとして作動している場合
があげられてました。

「この進化の過程」というのは、ミームについての進化という風に読めます。
そこで、あえてミームという言葉を使って僕なりに解釈してみると、これは、労
働市場であらそう各個人が、お互いに自らのミームを運んでいて、より労働市場
に適応したミームを運んでいる人は有利な立場に行き、逆の場合は不利に、、、

という「自然選択的な進化過程」が、ある不利なミームを運んでいる個人の死ま
でも帰結してしまう場合、それは個人の根本性を尊重しようとするリベラルな正
義としては容認できないということになるのだと解釈できると思います。ただ、
それだと身体障害があると労働力としての需要が低くなり、それがここで問題と
なっている労働市場のメカニズムでは生死の問題になりうる社会の場合は、どう
なるのでしょうか。そこでは、ミームの入る余地はどこにあるのでしょうか。リ
ベラルな正義と対立しているのはミームではなくむしろ労働市場のメカニズムで
あり、そのメカニズム固有の問題であるように思います。

もちろん、「この進化の過程」とはミームの進化のことではない、ととることも
可能です。そうなると前の突っ込みはもはや突っ込みではありません。ですが、
その労働市場カニズムとミームとしての制度やルールとの関係が切れてしま
い、ミームについて語っている理由は、ここではとくにないのではないでしょうか。。

また、支配的なミームを担う主体が「道徳的に承認される、と僭称し」と言われ
て、道徳の問題と一挙に接続されていますが、ここには結構飛躍があるように見
えます。
むしろ、道徳とは関係ないところで人間の行動の進化(変動)過程が作動してる
よ、というのがミーム論の面白いところのひとつだったような気がしてます。
なぜ、支配的なミームを担う主体は道徳的に承認される、と言うようになるので
しょう。古典的自由主義者は、「見えざる手」で出てくる秩序に一定の正しさを
認めるというのだから、その批判にはなっていると思います。が、どうしてミー
ムを実体化すること一般から、そのような「見えざる手」を道徳的承認機構とし
て認めることになるのだろうか、と思います。

また、そもそもが、5章全体において、「第二の屈曲」が論じられています。そ
れは「見えざる手」機構の実体化であるとされます。ミーム論が「見えざる手」
の実体化になっている、と読めます。ミーム論は、「機械」のヴィジョンが想定
した、失敗したやり方とは違う実体化であるはずです。ですが、ここでは区別さ
れてはいうものの、結局は「個人の意図を超えたレベルにおいて不可視の実体が
社会システムを支配している」ものとして同じカテゴリーに入れられて一緒に批
判されているように思います。ミーム論が実体化するのは、個人を乗り物として
行き来するミームであり、進化過程ではないはずです。これって、「第二の屈
曲」の事例として成立しているのでしょうか。。。そして、一気に新自由主義
経由して国家の話になっていくのもさみしいです。
ミーム論について、ドーキンスの定義以外具体的に参照されていないのも残念で
す。。。

なんて、結局ミームについてもっと書いて欲しいだけだったりして。まあ、ミームを擁護する人なんてそんなにいなさそうなので、いいか。