今日は河原町丸太町の交差点にあるパキスタンカレーでお昼ごはん。本当にこれがパキスタンカレーなのかどうかを確認する方法は僕にはないけれど、おいしいことだけはすぐに確認できる。
途中でみぞれが降ったこともあって、温かいチャイも本当にうれしかった。


その後はフヤ町蛸薬師通りの「オーレリ−」というケーキ屋さんのケーキ。ここのモンブランは地にメレンゲを使っていて、意外な食感がとってもいいです。ぜひお近くにいったときは食べてみて下さいと勝手に宣伝。


ところで「さようならCP」は、なぜこのような題なのか?がきになってたわけだけれど、
それはやはり、「脳性マヒ」と括らずに、一人の個人として(ここでは「横田弘」として)見てほしいというメッセージなんだと思う。はじめの親の語りはあくまで「脳性マヒ」の語りでしかないし、募金活動のときの雑踏もそうだし、インタビュー内容もそう。言葉と動きの不一致の問題も、指摘のとおり「脳性マヒ」の一般性を示すためのもの。なら、あの「横田弘」と書いて詩の朗読会を路上でする時はどうか?あれは個人としての「横田弘」を表現しようとして、行なわれたものだし、それを聴衆も見ている以上わかったはずだし、それが警官によって結局は「見せ物」として排除されてしまったあと、裸の「横田弘」を見せるのも明らかに自己表現でしょう。
これはやはり、原監督の意識的な物語りであるのではないかと思います。あの詩の朗読会までは「脳性マヒ」一般に語らせ、あれ以降に「横田弘」を見せつけるという。もちろん、それまでの一般性を語らせる中にも、横田さんは中心的に登場しているので、それは遡及的に「横田弘」の物語りとしてラインができる、なんて読み過ぎでしょうか。見てすぐにはストーリー性がないと思ったんだけれども、そうじゃないだろうと今は思うってだけなんだけれど。
でも、なんか書いててすごく無難な意見になったかもしれないとも思う。結局書いてみたかったのは、「さようならCP/こんにちは横田弘」ということでした。かっこよくないか。


おまけでグレン・グ−ルドのでてるなぜかフランス語解説によるVTRを見た。衝撃。