拙著書評−−竹村正人「労働は余暇のためにある」

もっと前に紹介させてもらおうと思っていながら、ずいぶん遅れてしまいました。
全文掲載の許可も頂いているので、最後にに掲載します。
竹村くんの生活の実感に根ざした、過分な、とても美しい書評です。ありがとう。

  • また、この書評は、友人たちの作っている雑誌『PACE』の、第7号「洛北出版」特集に掲載されています。こちらもぜひ(7号もでています)。

『PACE』6号 特集「洛北出版という天使」、販売してます。
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  • 竹村くんは、もともと「おかばあ」という毎週木曜だけやっている酒場の店員をしつつ、うんこ詩人として活動しつつ、いまは映画監督として、ダダカンさんを主人公とした『ダダッ子貫ちゃん』、藤井貞和さんを主人公とした『反歌・急行東歌篇(はんか・きゅうこうあずまうたへん)』を撮影し、後者の上映会をやっているみたいです。ぜひ(といつつ都合ついてなくてまだみれてないんですが)。

新感覚朗読ロードムービー反歌・急行東歌篇』(はんか・きゅうこうあずまうたへん)完成しました。
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  • 竹村正人,20120401,「労働は余暇のためにある−−中倉智徳『ガブリエル・タルド』」『PACE』6:52-55. (途中の数字(52>53)は、そこで改ページを示す表記です)

 中倉さんはいい船乗りになる、読んでそう思った。
 ガブリエル・タルドの名を私が本格的に知ったのはマウリツィオ・ラッツァラートの『出来事のポリティクス』においてであるが、以来、タルドと言えばモナド論(正確にはネオ・モナド論)だと思っていた。ところが本書において著者は、ネオ・モナド論は扱わない、とする。なぜなら、タルド自身がネオ・モナド論を『形而上学』と呼び、科学としての社会学とは区別していたからだという(三三頁)。これは面白い。これまで私がタルドの最も刺激的な思考として認識していたモナドについての考察を、本書は避け、別の思考、すなわち「科学としての社会学」を扱うというのだから。つまりこの本は、これまで日本ではほとんど論じられていなかった、タルドの全く新しい一面を見せてくれるというのだ。そしてそのためにタルドの『経済心理学』が読解されてゆく。ここに本書の最大の特徴がある。タルド再評価の潮流に乗らず、刺激的なモナド論をあえて避け、禁欲的に一冊の本を読み解いていく事、これが本書の道なのだ。
 本書は決して難解ではないが、ある種の読み難さもあある。それはおそらく、タルドが発明した独特の概念に、私達たちが初めて取り組むからだろう。しかしこのある種の難解さの霧は、四章以降、その面白さに伴って一気に晴れていくようにおもわれる。貨幣を論じた五章、公正価格について論じた六章、闘争を論じた七章、地代や土地との連合を論じた八章、そしてアソシアシオンを論じた九章まで、後半はどこを読んでも刺激的だが、ここでは労働について論じた四章のみを紹介しておこう。
 「あなたは何をしている人ですか?」「あ、えーと、介護をしてます」。私たちが社交的な場でするほとんど最初の挨拶はこのようにして始められる。ここで問われていることは何だろうか。ここでは明らかに職業あるいは身分が問われている。したがって聞かれた側は自身の従事する賃労働の名を答える。しかしなぜこんなことが訊かれるのか。おそらく、職業を尋ねることが、相手のことを把握するための良い手段だと考えられているからだ。なぜか。ひとつには職業を訊けば、その人の生活に占める最も大きな活動を知ることができると考えているからであり、したがってその人が「普段」なにをやっているかわかるからであり、したがってその人間を形成する主要な時間とそ 52>53 の活動内容を把握できると考えているからだ。
 しかし『ガブリエル・タルド』を読んだ後には、もうこのような会話は慎まなければならない。というか、変更しなければならない。なぜか。働いていない者たちが一瞬答えにつまるから、だけではない。詩を書いているのに詩を書いていると言いづらい詩人がいるから、だけでもない。なによりもまず、タルドによれば「労働は生産ではなく再生産であり、発明に対する模倣なのであって」(一九三頁)、最初に尋ねるに値しない愚劣な質問だからである。ようするに私たちはいつも、「あなたは何を再生産しているのですか?」「普段なにを再生産して、どんなふうに模倣してますか?」と問うているのだ。恥ずかしいことではないか。なるほど労働について質問することは悪いことではない。話次第では酒の肴にもなりもしよう。だが最初にこんなことを訊き、そしてそれがその後の社交関係を少なからず規定していくとなれば、やはり私たちはなにか間違ってしまっているのだ。質問はしかし、表面的には変わらないかもしれない。「何をしている人ですか?」というのはひとまずそれでよい。しかし返答は変わる必要がある。すなわち、労働時間以外の時間に何をしているかこそが、答えられるべき内容であるはずだ。なぜなら、「タルドにとって、余暇は、労働力の再生産のための休息ではない。余暇こそは新たなものの発明を行なう生産的な時間であり、そして、社交性や喜びのために必要な時間なのである。タルドにとっては、労働のために余暇があるのではなく、余暇のためにこそ労働がある」(一九三頁)。美しい言葉なので繰り返す。「労働のために余暇があるのではなく、余暇のためにこそ労働がある」。なぜか。余暇においてこそ新たなものが発明され、真の意味での生産が行なわれるからだ。だから私たちはこう答えよう。「まだどんなものが生まれるかはわかりませんが、いまはプールで泳いでいます」と。
 四章ではさらに、労働の苦痛について語られている。ここでは「退屈」の問題、タルドのいうところの「注意の疲労」が取り上げられる。ここは重要だ。なぜなら、私たちがバイトを選ぶ際、「楽かどうか」というのがひとつの基準になるが、することがなくて暇な状態が、必ずしも労働の疲労を軽減するわけではない、ということなのだ。例えば客の少ないカラオケ屋の受付はどうか。客は来ないが、来るべき客に備えて待機していなければならない。あるいはギャラリーにぽつねんと待機するのも辛い人には辛いし、寝返りの指示を待って横たわる人間の側にいることも、傍目から見れば楽に見えるが、注意の疲労という意味ではしんどいといえる。そしてここが重要なことだが、この注意の疲労は、心理的要因を検討しなければ、身体的な疲労が軽減しても解決しないという点だ(二〇〇頁)。これはパソコン仕事やサービス労働など、知的・精神的な労働が増えている現在において特に重要な考察ではないだろうか。
 タルドは退屈さに対して、労働の楽しみ、喜びは、他者との協働にある、すなわち、「労働者が歌いながら働いているか」どうかにあるとしているようだ(二〇二頁)。ここに、「労働者の魂から失われた喜びをいかに取り戻すのか」という課題が引き出される。例えばある若者が週に一度酒場を開くとする。そこで彼は無償で働き、酒を安価で提供し、接客をするとする。53>54 この時、金にもならない労働を支える彼の喜びとはなんだろうか。それはおそらく、人と出会い、話、時には歌うという、他者との協働にあるのだろう。もちろん彼の労働が無償である必要はないし、酒がもっと高くてもいいかもしれない。しかしもし酒場の経営が主な収入源として考えられ始めると、純粋に他者との協働を楽しめなくなっていくだろう。ここに、労働と喜びの、バランスの難しさが存在する。これは極めて実践的な課題でもあるのではないだろうか。
 本書は続いて、タルドの労働への「敬意」についての議論を紹介し、続いて「生きた労働」について論じていく。詳しくは本文を読んでもらうとして、ここで大切なのは、単に労働が否定されているのではない、ということだ。労働は肯定される。なぜか。それは「人間の労働が、環境をつくりあげ、つくり変え、適応し、また環境に適応させられていく「生命の普遍的で偉大な労働」の一つであるからである」(二〇九頁)。このとき、人間の労働と動植物の労働とは区別されていない。生きるということ、動植物や大地をも含む他者と協働するということ、この意味において労働は肯定されるのだ。このような考察は素朴ではあるが新鮮であり、かつ納得のいく内容だ。なぜなら、私たちは日常において、単に労働を嫌っているだけではなく、なにがしか労働に喜びも感じているからであり、労働を全否定したいと思っているわけではないからである。この時の労働とは「賃労働」よりも範囲が広い。労働の肯定か否定かをめぐっていつも話しがこじれてしまうのは、それが労働賛美か全否定かの二極論になってしまっているからだろう。問題は労働にどのようにして喜びを取り戻すのか、ということなのだ。だがしかし、賃労働の誕生とともに大地を奪われてしまったわれわれの労働を、はたしてタルドは肯定するだろうか。
 とまれ、労働が肯定されるとしてもやはりそれは再生産であり模倣であって、余暇の重要性こそがより考えられるべきものであるという。したがって四章の最後は、余暇の配分についての考察になっている。余暇は社交性の花を咲かせる場所であり、かつ「発明は余暇と研究の娘」であるという(二一五頁)。娘は成長してまた子を産むだろう。だからタルドは息子ではなく娘の比喩を使ったのだろう(たぶん)。
 本書において何度か指摘されているように、タルドは単に発明が良くて模倣は良くないと言っているのではない。その両方の関係、バランスが大切だと言っているのである。ここは勘違いされてはならないだろう。発明は破壊でもある。破壊によって苦しめられる労働者たちがいる。そのことは重要な考察課題なのだ。しかしまずは私にとって、四章でなされる労働についての新たな思考は、非常に面白く、かつ有効であるように思えた。会話から変えなければならないと思ったのは嘘ではない。この意味でも、余暇の配分という問題は重要だ。だが、ただ休みを増やせというだけでは問題は解決しない。タルドはバカンスの制度と祝祭制度を区別し、「バカンスは、活力ある喜びというよりは健康のための休息としてみなされている」と指摘している(二一八頁)。単に休日が増えただけでは、私たちは何を消費すればいいのかとまごつくかもしれないし、暇だからもっとバイトしようと思うようになるかもしれない。労働を減ら 54>55 し、余暇を増大させること、そのバランス、それと同時に、その余暇に、どのように祝祭性を取り戻すのか、これらが考えられるべき課題なのである。ここに社会運動との接点も出てくると思われるが、しかし旧来の社会運動は喜びを創りだすことをそれほど考えてこなかったのではないか。こういうと乱暴なまとめ方かもしれないが、ただ労働の問題を解消し、余暇を獲得したとしても、そこに社交性の花を咲かせるべき祝祭の空間が生まれなければ、それは空虛な銀行定休日となるに過ぎないかもしれない。この意味において祝祭的空間の創出が社会運動の自薦的課題ともなるであろう(新たな社会運動についてはビフォやラッツァラートの本が参考になる)。そして、タルド自身はアソシアシオンの体制へとその答えを探っていったように、私たちにとっての理論的課題としても、喜びを生み出す体制の問題は、まだまだいくらでも考えることができる、刺激的な課題としてある。相変わらずの美しい装丁の、その水辺を走る鉄道線路の表紙を眺めながら、読後もまだワクワクする本だと感じるのは、おそらくそのためなのだろう。